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Diary

世界の見かたが変わるとき

2014年08月28日 

例えば何かにひどく落ち込んだとき、また喜びに満ちているとき。世界とは私そのものだと思うことがある。今私は、私というひとりの人間の心が投影された世界を、ただ見ているだけ。同じ花を見ても、きれいだなと思う人もいれば、枯れているな、と思う人もいる。だから世界はひとつにならないし、人は誰しも何かの思い込みによって心は支配されている。

そんな世界を、一冊の本が広げてくれた。

大学卒業後、約2年ほど雑誌『+81』というデザイン誌の編集者をしていた私は、その当時、デザインとは気持ちの高揚に繋がる装飾であり、現状よりもより良いカタチにするものであり、お洒落なもの、かっこいいものを作るための思考と作業のことだと思っていた。

仕事を通じて、私は様々なデザイナーが手がけた作品に触れる機会に恵まれた。個性を感じる作品に触れては、気持ちは高揚した。ところがその繰り返しの日々のなかで、いつしか心は満たされなくなっていった。目の前に積み上がる様々な作品集を見ながら、少し虚しさすら思う。本という物体もまた好物なデザインだったはずなのに……。

そんなとき、たまたま立ち寄った書店で偶然目に止まった本が『クジラは潮を吹いていた。』だった。そのシュールなコピーに惹かれ手に取ってみると、著書はグラフィックデザイナーの佐藤卓さんだという。本を開いてみると、過去に佐藤さんが手がけた仕事の写真とともに、その制作秘話が綴られていた。

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読み進めるに連れ、佐藤さんの、デザインに対する優しくも鋭いわきまえが立ちこめてくる。何より不思議なのは、どのページを開いても、デザイナーではない私が自分事にできる言葉に満ちていたことだ。なかでも私の視界を拓いてくれたくだりがある。

「個性は対処の仕方にあるのであって、表現に存在するものではないというのが私の考えである。個性から表現は出てしまうのであって、個性的な表現をすることに意味はない。個性とはそんな表層を指す言葉ではない。』(『クジラは潮を吹いていた。』P144から引用)

目から鱗だった。それからというもの、私は人に対して、また人が生み出した作品(デザイン)に対しても思いを寄せる角度が変わっていった。それはきっと個性の本質に気づくことで、結果的にデザインの持つ可能性を知れたのだと思う。やがて私自身も、自分らしさを考えることはなくなった。考えるべきはそこではなくて、目の前の対象や課題に対して、ただ真っすぐにぶつかっていくこと。相手の話や希望に耳を傾けること。それがすべてで、そこだけに集中するようになっていった。

知っていて、知らないこの世界。矛盾をはらむ世界の見かたは、いつだって自分の側にある。そして人生の醍醐味とはきっと、この世界の見かたを増やしていくことにあると思う。この『クジラは潮を吹いていた。』は、まさに私に世界の見かたを教えてくれた。

また、同じ存在として、もう二冊。『単純な脳、複雑な「わたし」』(池谷裕二)『Frida by Ishiuchi』(Ishiuchi Miyako)もまた、いつも書棚に置いてある。

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あらためて早起きは三文の徳を知る

2014年08月20日 

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僕が生まれた東京都台東区は数年前から、さまざまな意味で大きく変わりつつある。東京の下町らしい、粋やいなせといった、昔ながらの下町風情を観光産業に結びつけ、街全体をある種のアミューズメントパーク、テーマパーク化した観光地としてのカラーを強力に押し出している。それは狭い敷地に、ジェットコースターや、お化け屋敷、観覧車などのアトラクションを盛り込んだ遊園地「花やしき」のようだ。
もう一方で、上野の山に建つ、フランスの建築家ル・コルビュジエ設計の国立西洋美術館の世界遺産登録への動きもそうだろうし、浅草寺界隈の商店街や奥浅草、裏浅草といわれる辺りの再開発もその一環だろう。
そんな観光都市としての行政による強化とは裏腹に、より地域や暮らしに根ざした、人のなりわい、身の丈に近い商いを、新たにこの地で、という若いクリエイターたちによる、これまでにない新しい流れも生まれてきた。

僕が生まれ育ち暮らしているこの町にも、最近は地元出身者ばかりでなく、自分のペースで日々を営むことができ、ものづくりの伝統がしっかり根付いたこの地に可能性を感じてくれる、才能と熱意をもった人びとが集まりはじめた。テーマは、手仕事、余白、デザイン、ライフスタイル。
丁寧な手仕事とは、なにも「物」を作ることばかりではない。日々の暮らしを根底からささえるには不可欠な、食の面においても、いいお店が増えてきた。そんなあたらしいスタイルの食文化が生まれ、この町に暮らす楽しみが増した、というこのエリアの居住者も多いのではないだろうか。

僕が住んでいる浅草から、自転車で約15分の谷中・千駄木・根津・本郷という、台東区と文京区をまたぐエリアにも、そんなお店や、暮らしや食を楽しむことの出来るお店が増え、今やその流れも定着してきて、また別のフェーズにむかっている感もある。
そのなかでもここ数年来、僕の変わらぬお気に入りは、台東区と文京区の区界にもなっているへび道にあるベーグル店「旅ベーグル」だ。
旅ベーグルがお店を構える「へび道」の名前の由来は、へびの体のように蛇行した細い道から来ているというのが通説だ。都内にはこのように細く蛇行する裏道は現在でも数多く残っているから、その町まちにある道の由来を調べてみるのも楽しいと思う。

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谷中へび道は、大正時代にまで時代をさかのぼれば、人が往来する通りではなく、藍染川という細い川が流れていたという。その名を残す藍染通りという名前をもった根津神社に続く商店街が今も近くに残ることは、意外に地元の人でも知らないことである。
大正よりさらに時代をさかのぼれば、谷中という上野と本郷の二つの山の谷に位置し、辺りは寂しく、けものしかいないようないくつもの小川が流れていたであろう、人の営みとともに発展してきたこの町の由来もみえてくる。
焼きたてのベーグルを朝食で食べて欲しいという思いから、まだほの暗い午前3時半から仕込みをはじめ、朝の7時には開店という、ひと昔まえならどの町にも一軒は当たり前にあった町のパン屋さんのような「旅ベーグル」。

夜明けとともに働きはじめ、日暮れのおとずれとともに家路につく、そんな当たり前で実直生き方がこの町らしいライフスタイルでかっこいい。
現代のエグゼクティブたちは、午前3時、午前4時に起床するだとか、そんなニュースを時たまネットでみることがある。かのアップルのCEO、ティム・クックさんは4時半、ナイキCEOのマーク・G・パーカーさんは午前5時に起床、スターバックスのCEO、ハワード・シュルツさんは朝6時にはすでに会社に出社しているという。彼らと比較することも出来ないことを承知で言うが、かくいう僕も、最近生活を共にし始めた愛猫ジャスパーの早い過ぎる朝食をねだる猫パンチとともに、4時半に起きてこのテキストを書いている。

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ライフスタイルにおいて夜も朝もない、二十四時間という考え方が定着した現代において、そんな1日のタイムサイクルもなんとも気持ちの良い暮らしではないだろうか。

もちろん、そんな朝早くから仕込まれ、丁寧に作られる旅ベーグルのベーグルは、素材からして健康に配慮がなされ、ナチュラルでいながら食事としても腹持ちのよい、食事としても食べ応えのあるものだ。

ベーグルの種類も小麦の風味がほんのり香るプレーン、南カリフォルニア産のレーズンをたっぷり使用したというレーズン、個人的には一番のお気に入りのスパイシーなテイストが口いっぱいに広がるデュカなどを定番に、日替わりのお楽しみや、あんこ入りやドライフルーツ入りなど、風味豊かなベーグルを、あせらず気負わず毎朝丁寧に焼き上げているさま、その働きぶりがいい。

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旅ベーグルを営む松村くんとは、下町の仲間と結成した台東フォーククラフト協会の仲間である、谷中のクラシコの高橋さんに紹介してもらった縁から親しくなり、それ以来よいお付き合いをさせていただいている。

ここ最近では、店内壁面を使った「A WALL STORE」という、彼がアメリカ・カリフォルニアを中心に、旅して集めた日用品を販売する小さなショップ・イン・ショップもオープンさせた。そこには夢のカリフォルニア州の形をしたカッティングボード「Very California Cutting Board」や、クリスティーナさんがつくるティータオルなどが販売される。クリスティーナさんというのは、彼が旅したアメリカはサンフランシスコで出会った作家さん。その彼女のプロダクトであるティータオルは、彼女の自宅アトリエでつくられるシルクスクリーンでプリントが施された、手触りのいいタオルである。そんなDIY精神にあふれた、他ではあまり売っていない今のアメリカの匂いがするプロダクトを買うことができるのも、旅ベーグルの新しい楽しみになっていて、僕は嬉しく思っている。

毎朝、早起きをして、この町を見守るようにして商いをしていてくれている人がいると思うだけで安心できる。そんな風に思うのは僕だけではないはずだ。僕も彼らのように、谷中、千駄木、蔵前、日本橋、浅草、この町の暮らしに貢献することができればといつも思っている。

痛みを知るまちが、
花火に込めた想い

2014年08月11日 

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8月2日、3日の夜の予定は、毎年必ず決まっている。

東京から新幹線で約1時間45分。長岡駅(新潟県)に到着した私が向かう先は、「長岡まつり大花火大会」の会場だ。長岡駅から徒歩でちょうど30分ほど。辺りがちょうど薄暗くなる19時すぎに、長生橋下流で日本最長の川、信濃川河川敷に私はすとんと腰を据える。高層ビルといった視界を遮るものはなにもない。視界良好。空と山と川の境界線が曖昧になっていく。「もう間もなく」。人々の高揚感が、会場全体を包み込むとき、私の心のなかに「ああ帰ってきた」という実感が滲んでいくのだった。

太平洋戦争末期、昭和20年8月1日に起きた長岡大空襲。「長岡まつり大花火大会」は、その空襲で亡くなった人々の慰霊とまちの復興への強い願いを込めて打ち上げている歴史を持つ。1949年、かの著名な放浪の画家、山下清氏は実際に長岡の花火大会に訪れてその光景を焼き付けた。その1年後に貼り絵で再現。それが彼の代表作『長岡花火』となった。以降、長岡花火は年々大きく認知されていく。

2004年、「長岡まつり大花火大会」は新たな意味を持つことになる。その年にあの中越地震が発生したのだ。これを機に長岡の花火は、いっそう壮大な花火が打ち上げられるようになる。

長岡花火の代名詞と言えば、何といっても正三尺玉だ。直径90センチ、重さ300キロという巨大な玉が、600メートル上空に打ち上げられ、直径650メートルに広がる。この正三尺玉と同時に、会場を彩る仕掛け花火がナイアガラ。信濃川に架かる長生橋と大手大橋に、それぞれ650メートルもの大瀑布が川面に流れ落ちる様は、実に幻想的だ。

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そのほか、長岡とゆかりの深い戦国武将・直江兼続公が掲げた「愛」をテーマに、打ち上がるスターマイン、そして中越地震以降欠かせない復興祈願花火がフェニックスだ。フェニックスは、全幅約1.6キロメートルと幅、高さともにあまりにスケールが大きいため、自分の視界だけではとても捉えきれることはない、花火という常識を逸脱したもの……。

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それまで花火は楽しむものだった。けれど、フェニックスを見て初めて花火に涙するという経験をした。まさに花火という名の、時間と空間、光も取り込んだ芸術作品。それは生もので、限りがあるからこそ愛おしいと思う。

「長岡の花火は世界一」。今年の大会で長岡市長はそう発していたけれど、まさにそうかもしれない。それは花火の規模は技術だけでなない。そこに込められた想いの深さも含めて。漆黒の夜空に開く不死鳥を眺めながら、力の限り、精一杯生きていくしかないんだなと、改めて想った。

中越地震から、今年で10年。痛みを知ったまちは、今後一層強く逞しく優しくなれると信じたい。

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加藤 孝司加藤 孝司
水島 七恵水島 七恵
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